中田敦彦さんのYouTube大学で、太宰治の**『人間失格』**が取り上げられているのを見て、胸が熱くなりました。中田さんの熱のこもった解説は、作品の背景だけでなく、太宰治の生き様や思想を鮮やかに蘇らせてくれました。
私自身がこの作品と出会ったのは、19歳。未来に不安を感じ、「このままでいいのか」と自問自答を繰り返す日々でした。そんな中で、主人公・大庭葉蔵が抱える**「人間失格」**という言葉、そして「道化」を演じる彼の姿に、強烈な共感を覚えました。まるで、自分の内面をそのまま見透かされているような感覚。これほどまでに人間の本質を深く描いた作品は、他に類を見ません。私にとって、この作品は間違いなく「最高の一冊」です。
聖書に見た「救い」:人間失格とキリスト教
今回、中田さんの解説や、又吉直樹さんの「聖書との関わりも考えなあかんねん」という言葉に触れ、改めて**『人間失格』と聖書の関連性**について深く考えさせられました。
葉蔵の人生の始まりを告げる**「恥の多い生涯を送ってきました」**という言葉。これは、キリスト教の「原罪」の概念にも通じる、救いを求める魂の叫びのようにも聞こえます。彼は世の中の不条理や、人間関係の複雑さから逃れようと、道化を演じ、酒や薬に溺れ、社会から孤立していきます。その姿は、まるで救いのない世界をさまよう孤独な魂のようです。
太宰治がこの作品を発表した戦前・戦後の混乱期は、多くの日本人が既存の価値観を見失い、「何を信じればいいのか」という問いを突きつけられていた時代です。そんな中で、太宰治が最後にたどり着いた「救い」の場所は、聖書だったのではないでしょうか。
世界で最も読まれている本は、間違いなく聖書です。そして、**『人間失格』**は、その聖書が描く「罪」と「救い」のテーマを、日本人の心の深層にまで落とし込んだ作品だと言えるのかもしれません。
現代に通じる普遍的なメッセージ
**『人間失格』**には、ネグレクト、幼児虐待、アルコール依存症、薬物依存症など、現代社会が抱える様々な問題が描かれています。中田さんが指摘するように、この作品の登場人物に自分を重ね合わせ、「これは私の話だ」と感じる人は少なくありません。
太宰治は、まだ精神医学が確立していなかった時代に、人間の心の闇を鋭く見つめていました。葉蔵の「道化」は、自分を守るための別の顔。それは、現代の精神医学で言う**「境界性人格障害」**の手記だと海外の研究者から評価されていることからもわかります。
私たちは、この作品を通じて、自分自身の心と向き合うきっかけを与えられます。葉蔵が抱えた「人間とは何か」「何を信じればいいのか」という根源的な問いは、形を変えながらも、現代を生きる私たち自身の問いでもあります。
中田さんの解説を機に、改めて**『人間失格』**を読み返してみませんか? きっと、作品に込められた普遍的なメッセージに、新たな気づきが得られるはずです。
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